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挨拶的小話、記念日、照度作戦、自傷行為の定義、飢餓状態と生きる意欲、そんな感じの日記

多分今日の日記に関係の無い、ただの挨拶的なエピソードで場を和ませるネタを始めに記して、冒頭に記述して話の矛先を曖昧にする役割というか、何というかそんな種類のことを挨拶代わりに日記に書く前段階から、挨拶的キャッチーな話のネタに特に自信もないし、コメントを受け付けていないので、他者の反応を感じられようも、想像しようもないので、ぐだぐだと冒頭からくだぐだ文章を書き綴り時間稼ぎ&退屈凌ぎを敢行し本題入る前の挨拶的な小話を本題に持って行く画策を私は行おうとしているようだ。だだの挨拶的なエピソードくらいしか本題に持っていけそうな話題も準備もない。それに今日は頭痛がする。そしてここのところブログを休む気が満々だ。もうそろそろブログを開始して一年になる。6/8が一周年記念日、二周年目といったところだろうか?イベント事やお祭り騒ぎ用の語彙のストックが無いので正確な表現かどうか自信がない。私はそんな催しには興味もないので先に予測可能な記念日として話題として振っといて当日は完全無視しかない。これも私にとっては辛い記念の時間的刻み目だ。かなりそのことを意識すると動揺させられる。

今日は外の照度が暗めだ。こういった暗さは私には素敵な1日の始まりといったところ。照度が全開の日は世間の皆さんの過剰な体力の余り具合を意識せざるを得ない。簡単に言い換えると、単に外が騒々しいんです。今日のような曇り日は近所の皆さんも(私も)chill outしておられるような印象を受ける。目視した印象ではなく、耳から聞こえる印象値。たぶん照度が全開の日は私は、目の瞳孔が縮むと思う。その代りに、脳の機能は健康的に活性化させられるのか、押し付けがましくハッスルさせられるのか、どちらかは分からないし、私には後者に感じられるし大半の他者への影響もそう見受けられる。反対に、曇りで暗い朝や昼間は、落ち着いた雰囲気がして私には好ましい。瞳孔が開き、光を貪欲に私の脳内に、視覚的印象の面では写真に撮る様に強く印象付ける。世界の様子が比較的に記憶に残り易い気がする。晴れの日は、反対に賑やかでゴージャスというよりも騒々しく煩わしく、活動的に流動的に早々とその人体的機能の限界から片方ずつ着地させられた踏みしめた大地の一点から素早くより遠く立ち去りたい逸るせっかちさ、移動欲運動意欲を意識する。私の身体はひきこもりでそんなスポーツとは無縁で一点に留まる重力か引力が尋常なエネルギー量ではないので、曇りの日が私には望ましいし、曇りの日は素敵だ。気分は落ち着くし、視界からの情報が記憶に残りやすい。

今日は頭痛がする。頭痛が痛い。そして寝起きに手のひらの親指の付け根の血管が透けて緑色や紫色に変色しているように見える部分に激しく痛みを感じた。血管の密集地帯が痛いので血栓が出来たのか、日頃の運動不足と行動範囲の異常な狭さ(なんせひきこもりなもんで)を思いそんな運動不足の心配から混乱して動揺したが(寝起きで全く頭が働かないし)、生活習慣病か?とか思ったがよく冷静に考えてみると、昨日に家の中に皮の堅い柑橘系の蜜柑タイプの果物があったんで、半分に切って力任せに絞って果汁を搾り取る不必要な頑張り(皮が堅いので今考えれば剥いてから絞った方が賢いし何でうちには絞り器の用意が無いんだという疑問)、と同時に喉の渇きを今すぐに新鮮な果汁で潤すには必要不可欠な作業、による筋肉痛(普段からの全く完璧な運動不足によるものだ、なんせひきこもりなんで)だったので安心したが、これも自傷行為なのかもしれない。こんな不必要な痛みは必要ない。賢くなかった(皮を剥いて搾れば筋肉痛にはならなかったという反省)というやってしまった行為に対する反省をした。頭痛がするのも実はこれも自傷行為なのかもしれない。ひきこもりで動く機会が極端に少ないというのに動きやすい薄着を私は一年中好んでする。今は半分膝頭が出るくらいの長さのジャージ素材の衣料を穿いている。ていうかこれしかもう穿くものが無い。外出用には別の物を着るが極端に私は外出用もそうだけど、室内用リラックス着も余分に持っていない。これも自傷行為か?自分を極端に傷つけはしないが、不必要な頑張りや我慢が普段から多い。外出しないのも我慢や意地からの無駄な頑張りだろう。と見せかけて本当は外出が怖く怖気づいているから、その表れなのかもしれないし、違うかもしれないが、ひきこもりは外出に慣れるべきだというタイプの他者の意見からの私自身の思い込みの前に、自分が納得できる外観を装う為に行動したり計画したりすることが一番の重要条件だと私は反論や批判したい。その言い方は冷たいし、問題の所在を理解していない試験的で仮な主張だということを自他共によく知らしめる必要が義務としてある。全ての意見や主張は仮で一時的な落としどころだ、ということを常に意識すべきだ。

話がどんどんズレたが、この記事の話始めに挨拶として書こうと思った小話を最後に書いておこう。それが私らしいやり方かなって思ってる。そして自分の土俵に持ち込めたみたいなんで、今の自分は勝ってるのかも?どうでもいいのかも。読んでいる他者が存在するとしたら、私の勝ち負けには興味がないのかもしれない、他者には。とりあえず遅蒔きながらも遅刻して書いておくと、なんか口の中が『モツカレー』を受け入れるべく準備されたものになりつつある。胃も『モツカレー』を受け入れる体勢を整備しつつあるような空気が私の脳内や体内に濃厚に読み取れる。『モツカレー』なるものを私は食べたい。2ちゃん用語の『お疲れ~』→『モツカレー(実際は半角カナ)』がとても気になり、字面からよく意味を考えたらモツがメインの具のカレーの味が気になってしょうがないんですここのところ私。ってそんなちょっとした話なだけでオチも何もありませんです。モツカレー食いたい。お疲れ様なる相手の労を労う言葉の代名詞になりえた、疲れた相手にご馳走するに相応しい苛立った神経をも癒すマジカルでミラクルな料理なはずである、きっとモツカレーはそんな料理なんだろう。食欲があるということは生きる意欲が私にも強くあることだと証明された訳なんだが。ココイチのメニューには載っていない訳なんだが。漏れの住んでるの田舎なんでココイチに頼る以外で、モツカレーでの飢餓状態の問題解消がしようがなさそうな訳なんだが。というか自分で作れ、と言われてしまうよりもむしろ自分で作った下手な料理では神聖な飢餓状態を誤魔化されるのは興が冷める訳なんだが。

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