右肩上がり批判
右肩上がりが常態だ、というのはありえない。右肩上がりの状態が続く、ある一つの個人か組織かがあるとする。その一方では、必ず右肩下がりのある一つの個人か組織かが必ず存在することになる。国内の大半が右肩上がり!といった状態も考えうる。しかし、ある特定の他国の大半がその真逆の状態となること必須なのだ。右肩上がりをイメージするとき、その裏では必ず右肩下がりの人たちが発生する。
自分も周りも右肩上がりで調子イイぜ!ヤフー!とか言っている反対のサイドに必ず割を食う人の存在がある。必ず対になっているのだ。必ずしも、対ではない可能性もある。一人の頑張りが多人数の利益を減らす場合がそれに当て嵌まる。しかし、10割近くの人間の行動においては対なのだ。プラスがあれば必ず負債を背負わされる側が常に存在する。誰かががむしゃらに努力して地位を勝ち得る。その反対側には、努力の甲斐もなく無残に打ち破れる側がある。まだしも、努力する場が与えられた場合は「自分に能力が無かったのだな」というバンドエイド的結論が当人の精神の安定を保証するかもしれない。
しかし、そう単純な話ではない。努力する場そのものを奪われるケースが出てくる。誰かが努力する、その反対側には努力する場さえ奪われている存在が必ずある。現代人はそれを隠蔽しやすい性質を持っている。だから、ひきこもり批判ニート批判が安易に存在しうるのだ。だが、資本主義社会の良いところは、別のチャンスがあるところだ。みんな頑張れ!怠けるな!怠けた奴が敗者なのだ!とする社会主義社会と違う点だ。
この社会主義的思想は貧しい者が小金を持った時に陥り易い罠、即ち思い上がりだ。「俺って努力家!このまま努力し続ければ世界の王にだってなれるな!」そう公言しつつ、他者に闇雲な努力を奨励する。そのような者が本当に王になってしまう場合も往々にしてある。その最たる例が「核家族社会」だ。そこには子供の成長を搾取し放題の、やり放題のワンダーワールドがある。ワンマン社長と同じ構図だ。余談を付け加えれば、ワンマン社長とカリスマ社長はその性質も内部構造も違う。ワンマンタイプの支配する組織は固定的、カリスマタイプの支配する組織は流動的の、大きな違いがある。固定的な場は往々にして気が遠くなるほど長年の犠牲を強いられる。
右肩上がりなんてたわ言にすぎない。人物が成長するなんてありえない。三つ子の魂百までだ。成長も衰退も、時限爆弾のように初めから設定されている項目である。千年の夢を見る者が千年に渡って栄えるのだ。無闇な努力を信奉する者は、千年の夢なんか描かない。その内、姥捨て山に捨てられるのがオチだから、若さを保とうと躍起になり、他者の若さに対しての抑圧者となりかわりやすい。自分より可能性のある芽は早い内に摘もうとするのが人情だ。それが努力家の仕事の一つに包含されている。努力家は千年王国の夢を描かない。淡々と自分の名前を千年に渡り轟かせるプランを実行するのみなのだ。
人はそれぞれ各自の能力を最大限に発揮しなければならない。絶望的にもそうだ。右肩上がりなんて寝言にすぎない。が、そんなたわ言を信じる以外にないのが現代社会の性質だ。みんながみんな、右肩上がりとなりうる社会ももしかしたら将来、可能性としてはあるかもしれない。そんなたわ言を信じる以外にどうもしようもない。左肩下がりになる連中のことは隠蔽工作する以外にどうしようもない。努力奨励!奨励努力!
栄枯盛衰が一人に一つの物語として起こるのではなく、「栄」「枯」「盛」「衰」のそれぞれにそれぞれの領域があり、互いに反響しあっている。ピンガーを打ち合ってお互いの存在を確認しあっている。この先も右肩上がりなんで!努力しましょう!なんて拙い思想を信じ切る前に、先ず世の中には4人の人が存在するとイメージするべきだ。「栄」「枯」「盛」「衰」の4タイプの人が、日本国内に同時期に存在していると常に意識していなければならない。老若の問題から言っているのではない。力が加われば加わるほど、同じ年齢同じ立場でも同じく格差が拡大していく。
私たちは常に流動的な社会を目指せばいいのだ。一定期間権力を持った人間を問答無用で引きずりおろし、ふたたびゼロ地点から再出発させるべきだ。しかし、誰が誰の地位を剥奪するか、これが問題だ。剥奪権を安易に行使すれば社会に混乱を招きやすくもなる。権力者は権力者で構わないのだ。世襲制もファミリービジネスも特にそれ自体は構わない。自然にお金を稼ぐ影響力が無くなる時に、無くなればいい。どこかで家は潰える運命にあるのだ。いつの時代もこの瞬間も、経済的破綻から娘の肉体を売って日銭を得る父親が減ることはない。常に一定の割合で存在してしまう。言わば、権力者への闇雲なリスペクトではなく、全ての場面で常にモラリティが問われているのだ。ひきこもりやニート問題もそうだ。他人から豊かさを奪うことが、道徳心から出来ないから自然とひきこもりやニートの地位に甘んじなければならなくなる。資本主義社会が陥り易い弱点なのだ。
適切な時期に祭りを行い権力を示す。俺はこんなに豊かなんだぜ!他人に見返りを求めず散財するぜ!他人に見返りを求めるのは貧しい者がするんだ!金を払うんだから俺を楽しませろ、とか言っている奴は下衆だぜ!他人に富を、見返り求めず施すことで俺の凄さを見せつけるぜ!言わば、そうやって社会が発展してきた。船荷の大半は海賊や荒海に食らわせる懐の深さがかつての商人にはあった。学者もそうだ。人類の歴史上で私財を投げ打ってまで、限界以上に学問や科学と闘って来た真摯な学者が多くいる。かつての社会では、自分の仕事に責任を持っている者が多くいた。そんな社会の発展に大きく貢献した過去の人類は遺物だと、敬意を払わないのが経済大国となった現代の日本人なのだ。努力しろ!とは口では言っていても、その程度の努力なのだ。自分の保身しか考えていない。自分の社会的地位を守る為にのみ、進んで何でもするタイプの努力家なのだ。それでは次の世代に何も残りはしない。その前に残す気が、端から頭にない。
金に糸目はつけてはいけない。ギブアンドテイクとかいう他人から脅し取る詐欺の手口も私は嫌いだ。そんなことを小手先で行ってきたから、社会が行き詰るのだ。右肩下がりでも上がりでもなく、先細りと呼ぶのだ。無償で他人を育てる。のが成熟した大人が行う仕事なのだ。
十人に一人がついて来れればいい。その程度で十分に見返りがある。それが教育だと思い込んでいる者が多い。現在の社会で、初めから人数が少ないのにもかかわらず、そんな悪習を自主的に受け継ぎ実践する者がいる。百人に一人だけがついて来れればいい。努力しろ!と全体を教育しながら、内情は千人の内、強靭な一人の人材のみを必要としているのだ。それを忘れてはいないだろうか?もう一度思い返す必要がある。
現代社会は育てる社会であるといえる。みんながみんな右肩上がりになるために、場を設ける社会が現在の社会である、はずである。一定の組織にはヒエラルキーそれぞれの定員がはっきりしている。ならばどんどん場を増やしていけば問題は解決するのだ。ピラミッドを無限に増やし、無限に地位を与え、責任のある大人だとみなす。資産は無駄遣いするためにない。経済的に豊かだというのことの意味内容はどういうことなのか?他者の社会的発展の為に積極的に一票投じるのが、経済的に豊かな社会の本来の在り方なのだ。